こんにちは、先日博多の禅宗寺付近を散策していたところ、駐車場の垣根に植えられていたひとつの椿に一目惚れしてしまいました。
ヤブツバキくらいの大きさで、道端から隠れ見つかったことを恥じらうように、うつむき加減に咲いていました。透きとおるような薄桃色の花弁は楚々としており、そのあまりの可愛らしさに「きれいだね~」と何度も呼びかけてしまうほどでした。
垣根には他にも3種類のツバキが植わっており、どのツバキも普段目にすることのない珍しいもので、植えられた方がお好きだったのでしょうか。
実は園芸品種のツバキがあることを自覚したのは大学に入って茶道を授業で習いはじめてからです。冬に先生がお持ちになる様々なツバキをお茶室で見て、先生に名前を教えていただいてはじめて、ツバキってこんなにたくさんあってどれもこんなに愛らしいものなんだと気づきました。
椿にまつわる話
ツバキはサザンカのように花弁が1枚1枚散るのではなく、多くが丸ごと落ちます。それが首が落ちる様子を連想させるため、戦国の時代において「不吉」と忌み嫌われていたという説により、現代でも縁起の悪い木として印象を持たれがちです。
しかしそれは、明治時代以降にツバキへの過熱を沈静化するために流布したものであり、むしろその姿は武士の生き様に似て「潔し」として好まれたと言われています。
椿と日本人
ツバキは昔から日本で親しまれてきた樹木です。
万葉集の中でツバキが詠まれた歌は9首と少ないですが、ツバキが観賞されるようになったのは鎌倉時代からと言われています。その後、華道や茶道の普及、将軍や大名といった時代の権力者の中にもツバキを愛好する者は多く、瞬く間に全国各地へとツバキの熱は広まったとされています。またツバキは花だけでなくその艶やかな葉も観賞の対象とされ、特に日本庭園には欠かせない存在です。
藪椿に始まり藪椿に終わる
このように現在まで日本だけでも2000種以上の品種が人の手によって生み出されるほど親しまれてきたツバキですが、茶道には「藪椿に始まり藪椿に終わる」という言葉があります。ヤブツバキからたくさんの珍しいツバキに心奪われ、より美しいツバキを追い求めようとも最後には原点であるヤブツバキの真の美しさに気がつく、という意味合いです。かくいう私もそうでした。茶道の先生がお持ちになる様々な園芸品種のツバキに夢中になりました。しかしある時、そんな私の心中を察するように先生は冒頭の言葉をおっしゃられました。私はハタと我に返り、改めてヤブツバキを見てみようと思いました。
落ちてなお美しい藪椿
ヤブツバキは今では少なくなる日本の原風景にとても溶け合います。原風景が日常であった頃、冬、葉や花の少ない時期に常磐の葉を湛え咲くヤブツバキに人々の心は慰められたのではないでしょうか。
また私がヤブツバキの美しさに気づき始めたのは、花が枝にあるころではなくその身を地に落とした姿でした。石畳、落ち葉や下草、雪の上、花咲かぬものたちに代わり花をもたせ彩られた景色は筆舌に尽くしがたく、そうしたヤブツバキの謙虚な美しさが日本にまた日本人に愛されている理由のひとつではないかと思います。
作成・撮影:永井綾葉
※園芸品種の椿名はインターネットにて照らし合わせて明記してありますが、確証はありません。もしご存知の方がいらっしゃいましたらコメント欄にてお知らせいただければ幸いです。